アスターテイスト プロローグ
コーヒーの香りが、店の中に立ち込めている。立ち込めて、と言っても決して不快なわけじゃない。むしろ、ずっとここにいたいと思わされるような、そんな香り。迫り来るような香りではもちろんなくて、なんとなく居心地の良さを作り上げてくれている。
よくよく耳をすませば聞こえるくらいの音量で流されている音楽はピアノのメロディだ。ついつい旋律を追いたくなるような、このまま気付かないくらいの距離感で楽しみたいような音楽。
手元のカップにはもう温度の角が取れたコーヒーが半分くらい残っている。正直に言えば、飲み終わろうと思えば飲み終われる量。なんなら、いつもならこれくらいの量、一口で飲んでしまうだろう。それをちびちびと飲んでいる。
でも舐めるようにで飲むのはなんとなくやっぱり雰囲気が合わなくてほんの少し口をつけては名残惜しくて離す、を繰り返す。
そんなぼくの視線の先に、ひとりの女性が立っている。肩を少し越えたくらいの綺麗な黒髪を一つに緩く括り、麻のエプロンを着ていた。何か帳簿みたいなのを確認しているのか、さっきから目線を手元に落としていて伏し目がちな表情ばかり、見続けている。
人を見ながらコーヒーを飲むっていうのも実際、どうなんだろう。あんまり行儀が良いことじゃないのかもしれない。
そうとは思うのに、いや視線の先にいるから、なんて誰に聴かせるでもない言い訳を心の中で呟いて彼女を見つつコーヒーを飲んだ。
「あ」
とはいえ、コーヒーは有限ではない。そもそも普段より倍もの時間をかけたとはいえ、もうすっかり飲み終わってしまっていて、となるとちょっと気恥ずかしさが追いついて慌てて席を立つ。女性がそんなぼくの様子に気付いて、笑った。
「お会計ですか?」
「あ、はい」
そそくさとカウンターに寄れば、五百円になります、と柔らかな声で告げられた。また慌てながら財布を探る。そんなぼくをじっと見ていたらしい彼女と顔をあげて、目があった。
「あ、え、っと」
「あなた、私のこと好きでしょう」
何を、と思った。この人は、何を言ってるんだろう。
ぽかんと口を開いたぼくにくすくすと笑う、その顔は確かに可愛い。し、不思議と不快感は覚えなかった。あ、とコイントレーを差し出され、ぽかんとしたまま、そこにきらきら光る五百円玉を置いた。かつん、と独特の音が店内に響いた。
「結構ね、分かるんです」
「なにが」
「この人、私のこと好きだろうなあってやつ」
当たり? そう笑う彼女に気が付けば、こくん、と頷いてしまっていた。あ、とまた間抜けに口を開いたけど、もう遅い。
「またどうぞ」
いつでも、待ってますから。
そんなことを彼女は言いながら、お店の入口までぼくを見送ってくれた。ひらひらと手を振られ、つい、ぼくもその手をふり返した。
またって。そう思うのに、きっと自分はまたこの店に来るんだろうなという確信もあった。魔性の人たらしだ、とも思うし、魔性と呼ぶにはあまりにその気配が健やかでそぐわないような気もする。
お店の名前は、徒然珈琲店。そこは一人の男性と女性がふたりで切り盛りする小さな珈琲屋さん。基本的に男性がコーヒーを淹れて、女性がホールを担当しているらしい。無口そうだけど時々キッチン奥で珈琲を淹れている男性も帰り際にぺこりと頭を下げてくれる。そんな様子に楽しそうに女性を笑うのでああこのふたりは仲が良いんだな、と思う。
女性の名前はヨウコさんと言う。
コーヒーにこだわり、居心地の良い音と香りで溢れるその店に、ヨウコさんはいる。そこではみんな美味しいコーヒーを飲んで、嬉しそうに笑っている。そして、その店は訪れたひとは誰もが、彼女のことを好きになってしまうのだ。
そう、みんなが彼女のことを好きになる。
ぼくがそれに気付いた時、ほんの少し寂しくて同時に嬉しかった。ぼくだけじゃない、という気持ちはぼくの好きは特別なんだと大声で言いたい気持ちと引っ張りあって綱引きする。今のところ、その勝敗はついていない。
それからぼくは、その店に通い出した。別にヨウコさんに会いたかったからだけではない。もちろんそれだって大きな理由だけど、学生のぼくには少し高く感じる五百円のコーヒーを飲みたいと思ったから。ぼくにとって、それは時々の自分のためのご褒美でその美味しさはぼくにとっては「嬉しい」そのものだった。
それから、ぼくと同じようにヨウコさんのことを好きになった人たちに会いたかったから、というのもある。
会って話してどうする、とも自分でも思う。おなじだと思いたいわけでも、自分は他の人とは違って特別だと思いたいわけでもない。まだ、ぼくの中でもなんでこうして話が聴きたい理由は分からないけど、それでも、まるでぼくの中にある感情を確認するようについ、声をかけてしまうのだ。
気味悪がられたらどうしようとはたまに思う。だけどなんでかたまたまか。ぼくが話しかけるヨウコさんのことを好きな人たちは決まってなんだかんだとぼくと話をしてくれる。まるで、そうすることで彼女への自分の気持ちをぼくと同じように整理したいのだ、とでも言うように。
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