1日50文字で物語する

うそとほんととうそのはなし

アスターテイスト プロローグ

コーヒーの香りが、店の中に立ち込めている。立ち込めて、と言っても決して不快なわけじゃない。むしろ、ずっとここにいたいと思わされるような、そんな香り。迫り来るような香りではもちろんなくて、なんとなく居心地の良さを作り上げてくれている。
 よくよく耳をすませば聞こえるくらいの音量で流されている音楽はピアノのメロディだ。ついつい旋律を追いたくなるような、このまま気付かないくらいの距離感で楽しみたいような音楽。

 手元のカップにはもう温度の角が取れたコーヒーが半分くらい残っている。正直に言えば、飲み終わろうと思えば飲み終われる量。なんなら、いつもならこれくらいの量、一口で飲んでしまうだろう。それをちびちびと飲んでいる。
 でも舐めるようにで飲むのはなんとなくやっぱり雰囲気が合わなくてほんの少し口をつけては名残惜しくて離す、を繰り返す。


 そんなぼくの視線の先に、ひとりの女性が立っている。肩を少し越えたくらいの綺麗な黒髪を一つに緩く括り、麻のエプロンを着ていた。何か帳簿みたいなのを確認しているのか、さっきから目線を手元に落としていて伏し目がちな表情ばかり、見続けている。
 人を見ながらコーヒーを飲むっていうのも実際、どうなんだろう。あんまり行儀が良いことじゃないのかもしれない。
 そうとは思うのに、いや視線の先にいるから、なんて誰に聴かせるでもない言い訳を心の中で呟いて彼女を見つつコーヒーを飲んだ。
「あ」
 とはいえ、コーヒーは有限ではない。そもそも普段より倍もの時間をかけたとはいえ、もうすっかり飲み終わってしまっていて、となるとちょっと気恥ずかしさが追いついて慌てて席を立つ。女性がそんなぼくの様子に気付いて、笑った。
「お会計ですか?」
「あ、はい」
 そそくさとカウンターに寄れば、五百円になります、と柔らかな声で告げられた。また慌てながら財布を探る。そんなぼくをじっと見ていたらしい彼女と顔をあげて、目があった。
「あ、え、っと」
「あなた、私のこと好きでしょう」
 何を、と思った。この人は、何を言ってるんだろう。
 ぽかんと口を開いたぼくにくすくすと笑う、その顔は確かに可愛い。し、不思議と不快感は覚えなかった。あ、とコイントレーを差し出され、ぽかんとしたまま、そこにきらきら光る五百円玉を置いた。かつん、と独特の音が店内に響いた。

「結構ね、分かるんです」
「なにが」
「この人、私のこと好きだろうなあってやつ」
 当たり? そう笑う彼女に気が付けば、こくん、と頷いてしまっていた。あ、とまた間抜けに口を開いたけど、もう遅い。
「またどうぞ」
 いつでも、待ってますから。
 そんなことを彼女は言いながら、お店の入口までぼくを見送ってくれた。ひらひらと手を振られ、つい、ぼくもその手をふり返した。


 またって。そう思うのに、きっと自分はまたこの店に来るんだろうなという確信もあった。魔性の人たらしだ、とも思うし、魔性と呼ぶにはあまりにその気配が健やかでそぐわないような気もする。



 お店の名前は、徒然珈琲店。そこは一人の男性と女性がふたりで切り盛りする小さな珈琲屋さん。基本的に男性がコーヒーを淹れて、女性がホールを担当しているらしい。無口そうだけど時々キッチン奥で珈琲を淹れている男性も帰り際にぺこりと頭を下げてくれる。そんな様子に楽しそうに女性を笑うのでああこのふたりは仲が良いんだな、と思う。
 女性の名前はヨウコさんと言う。
 コーヒーにこだわり、居心地の良い音と香りで溢れるその店に、ヨウコさんはいる。そこではみんな美味しいコーヒーを飲んで、嬉しそうに笑っている。そして、その店は訪れたひとは誰もが、彼女のことを好きになってしまうのだ。




 そう、みんなが彼女のことを好きになる。
 ぼくがそれに気付いた時、ほんの少し寂しくて同時に嬉しかった。ぼくだけじゃない、という気持ちはぼくの好きは特別なんだと大声で言いたい気持ちと引っ張りあって綱引きする。今のところ、その勝敗はついていない。
 それからぼくは、その店に通い出した。別にヨウコさんに会いたかったからだけではない。もちろんそれだって大きな理由だけど、学生のぼくには少し高く感じる五百円のコーヒーを飲みたいと思ったから。ぼくにとって、それは時々の自分のためのご褒美でその美味しさはぼくにとっては「嬉しい」そのものだった。
 それから、ぼくと同じようにヨウコさんのことを好きになった人たちに会いたかったから、というのもある。
 会って話してどうする、とも自分でも思う。おなじだと思いたいわけでも、自分は他の人とは違って特別だと思いたいわけでもない。まだ、ぼくの中でもなんでこうして話が聴きたい理由は分からないけど、それでも、まるでぼくの中にある感情を確認するようについ、声をかけてしまうのだ。
 気味悪がられたらどうしようとはたまに思う。だけどなんでかたまたまか。ぼくが話しかけるヨウコさんのことを好きな人たちは決まってなんだかんだとぼくと話をしてくれる。まるで、そうすることで彼女への自分の気持ちをぼくと同じように整理したいのだ、とでも言うように。



*** *** *** ***


続きはこちらにて頒布予定のアルバムについてくる冊子でお読みいただけます!



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グレー・スケール オープニングあるいはボクはここで待つ

ボクは、ぼんやりと時を過ごしている。
見えるのは砂とその奥の街の残骸。もしかしたらその街の名残は蜃気楼かもしれないけれど、ボクに確かめる術はない。


人間は、人間であることをやめたんだと思う。


そんなこともボクが「そう思う」だけで根拠はない。ボク自身も「人がひとだった」と感じる時代を生きたことはないんだから、分かりようがないのだ。
人が文明を手放してからどれくらい経つだろう。
もしかしたら、ボクが知らないだけで文明が残るエリアもあるのかもしれない。それも、ボクも知ることはない。知ることがない以上、存在しないのと一緒だ。
人が人と一緒にいることをやめた。繰り返された戦争でそもそも人口が減り続けた世界はある一つの結論を出した。人は、人と生きるからいけないのだ。
もちろん、人がたった一人で生きていくのは難しい。だけど、極力、人と関わらないように。最小限の小さなコミュニティで生きていくことを選んだ。奪い合ったり傷つけあったりしないように。それぞれが小さなコミュニティに分かれて、生活するようになった。



砂だけがずっとあるもので、そこで遠く太陽がのぼり月とかわりばんこで光を降り注ぐのをただ、見ている。
ボクはそこで、ぼんやりとした時間の中で過ごしてる。時々やってくる誰かが、その中で起こる「ちがうこと」だ。その誰か、もいつくるかはボクにはわかるはずもないんだけど。
ただ、何故かボクのもとにはお喋りな誰かが来ることが多い。それはたまたまそういうひとばかりが来るのか。それとも、ここに来るとみんなお喋りになってしまうのか。どちらかは分からないけれど、ボクはその話を聴くのが楽しみなんだ。


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そんな"ラジオくん"がお話を聴く話をいくつか書き、それに合わせた曲をMuseoが作ったアルバムが出ました



よろしければ。
音楽としても最高のアルバムです。

おなかすいた

自分で選んだはずのインスタントラーメンの味気なさを机に置いた瞬間思い知ったりする。食べる気がなくなりそうなことに目を背けながら鍋にお湯を入れる。どんぶりに入れた適当な水の量。それに冷蔵庫の中で萎びたキャベツを千切って入れる。
くつくつとお湯になるのを待つ。その中で申し訳程度のキャベツが踊った。気持ちばかりの「一工夫」。
そういや、インスタントラーメンは塩分だかなんだかが高いんだっけ、と思い出したので塩と中華スープの素を入れた。これで、付属のスープの素を少し減らしたらマシにならないだろうか。無駄な抵抗な気もする。ただ、大概のことは「気休め」でやっていくものなのだ。
もう良いだろうと、沸いたお湯へ乾麺を放り込む。少し浸して箸で崩して、また茹でる。崩す、茹でる。何分茹でるのか、というのはそういやそんなに気にしたことがない。
そろそろかなあと引き上げてスープを溶かす。どんぶりにそのままどろりと移して、あ、卵と思い至った。少し悩んで、生卵のまま入れた。まあ今日はそこそこ仕事もハードだったし、良いだろう。
それから、携帯でインスタのアプリを開く。この時間を見越して、麺は少し硬めに茹でた。目的のページに早々に飛べたとしても、麺は硬めが好きだ。問題はない。
少し前、いつの間にかアップデートされていたアプリは正直まだ慣れない。検索バーに打ち込む。カフェご飯。タグ、と選んで表示された写真たちをぼんやり眺めた。少し考え、おうちご飯、に打ち変える。また、たくさんのご飯の写真が表示された。

……よし。

「いただきます」
手を合わせる。自分が作った、インスタントラーメンとそれからインスタに表示された画面に向けて。



ああえっと、と上司の口元がもぞりと動いて、身構える。その癖はきっと無意識なのだと気付いたのは、最近だ。
嫌な人ではないのだと思う。し、そのもぞりと動いて言葉を纏める癖は自分を初めとする他人への気遣いの結果なのだろう。どう伝えるか、何を伝えるか。その言葉を纏めていく様子を見る。ただ、それはどことなく居心地が悪くてつい身構えてしまう。なんというか、言葉を挟むタイミングに慎重にならなきゃと思うのだ。
「高城、お前さ」
「はい」
もぞり、きょろり。目と口の端が動く。これはあまり目で追わない方が良いんだろうか。ただ、その微妙な動きで相手の言葉の終わりを探したい気持ちも否定できない。
「資料できたか」
「はい、先日頼まれたものなら」
「あれな、できたら取引先の追加の依頼事項入れてほしくてな」
しまった、と食い気味に重ねられた言葉に心の中で息を吐いた。ついでに言えば、上司の顔にもしまった、と書いてある。どうにも、コミュニケーションがうまくとれない。しかし半端に取れているとこう、訂正することも難しい。
「……分かりました」
「……頼むわ」
触らぬ神に祟りなし、見て見ぬふり、結果オーライ。頭の中で念じながら気が付けば私用の携帯に手が伸びた。比較的緩い会社で良かったと思うのはこういうところだ。上司も視界の端、俺が携帯を触るのが見えていないわけじゃないだろうが、特に何も言われない。
言われないけど思ってるのか。そもそも興味がないのかどっちだろうな。自分はどっちだったら良いと思ってるんだろう。そんな嫌な物思いに吐き出しそうになったため息を飲み込んで、インスタのアプリを開いた。履歴には、今朝の分が残ってる。

色とりどりの、食事たち。今朝はカフェご飯が検索ワードだったから「インスタ映え」をより意識されたものが集まってるような気がする。



最初は、ただ、自分の作った「残念なご飯」の現実から逃避しようと検索したことから始まった。視覚だけでも。何を見ようが食べるものは変わらず、インスタントの何かだったり、茶色い名前のない料理だけど。ああ、こんなに美味しそうなものがあるんだなあと思いながら飯を食うと、少しマシな気がした。何が、と言われるとうまく言葉にはできないけど。
色とりどりの料理を眺める。ハッシュタグは美味しい、や、幸せといった柔らかな言葉が並ぶ。それを見るとなんとなく、ひと心地つけるような気がする。
上司とのズレたコミュニケーションで草臥れた気持ちが少し上向いて、そのまま指を滑らせた。
インスタはほとんど使いこなせずにこうして時々料理を検索するために使っている。んだけど、最近、ひとりフォローした。だからタイムラインにはその人の投稿と、広告だけが並んでいる。というか、インスタって広告が多いよな、絶対。時々、こんな人をフォローしただろうか、と首を傾げそうになる。
とはいえ、フォローしてる唯一のその人の投稿が俺のタイムラインの大半を占めるのだ。
どこかのカフェの店員さんの投稿らしい。お店の料理や、ドリンク、それからプライベートで作ったらしい料理の写真を投稿していた。カフェの宣伝用というわけでもないのか、店のものが少し、プライベートのおそらく自宅であろう写真がほとんどだ。特に添えられるコメントもタグもほとんどなく、過剰な加工もされていないその写真たちが、いつのまにか俺のお気に入りになっていた。
「あ」
「え?」
後ろから聞こえた声に振り向けば、中曽根さんが立っていた。少し驚いた顔をしていた。
「……あ、えっと、手紙、届いてました」
「ありがとう、ございます」
昼休みに、外にご飯にでも行っていたのか。下のポストから回収してきたらしい郵便物のいくつかが中曽根さんの手には握られていた。大きな封筒を受け取ると、中曽根さんは、じっと俺の携帯を見ていた。なんとなく、気まずい。ギリギリ昼休みをとっていた、と言い訳もできるような気もするし、ただ、何一つ食事をしていた形跡もないから難しいだろうか。んん、と困っていると、バツが悪そうな顔で曖昧な会釈をして、中曽根さんは去っていった。

咎めなし、ということだろうか。そもそも、別部署で年次も一応とりあえず俺の方が上ではあるから、注意をしようとも、してなかったのかもしれない。いやでも、社会人にもなって、年次がどうのってのも幼いか。ううんと唸りながら、とりあえず、インスタのアプリを閉じた。



あれ以来、中曽根さんの視線を感じることが増えた。携帯を触ってるとそわそわとこちらを見ている。
どうしたもんだろうな、と思いながら給湯室へと逃げた。カモフラージュに持ってきた、白湯しか飲んでいないマグカップをシンクにおく。
一体、どうして、彼女は俺を見ているのか。これが漫画ならもしかして気があるんじゃ、なんてときめくところだけど、さすがにそんな夢見がちなことを思う年齢でもない。さらに言うと、職場恋愛なんて面倒事しか起こらないもの、万に一つもときめけそうにないし、そういう仮定すら、相手に失礼な気がする。
それか、と考える。あの時、インスタの画面を中曽根さんも見ていて、それで反応しているとしたら。実はあのアカウントは彼女のアカウントで、それで凝視するように俺のこと見てる、とか。
「ないない」
これも、ドラマの見過ぎだ。どう考えても。だし、あのアカウントはたぶん、カフェの店員のものだと思ってる。矛盾している。うちは副業禁止だし、絶対違う。



だけど、もしそうならどんなに良いだろう。



自分にとって、日々の楽しみの一つであるアカウントの投稿主が自分の職場にいるとしたら。しかも、その人がこんなに身近なひとなら。
それはドラマのようで、いかにも何かが始まるみたいじゃないか。
そこまで考えて、苦笑した。そんなわけがない。そんなわけがないからこそ、妄想する。
実は、と告白される秘密。もし、そうなったら自分はどうするだろう。別に恋愛としてどうこうを求めているわけじゃ無い。だけど、きっと仲良くなれるような気がしていた。そしてだとすれば、まるで小学校の時に初めて友達ができた時のように嬉しいだろうな、という予感があった。
「高城」
「はい」
名前を呼ばれて、パソコンの電源を入れる。言われた書類データを立ち上げて、指示を確認しながら数値を入力していく。
それからも、時々視線を感じたものの特に何も起こらなかった。起こるわけがない。起こらないからこそ、楽しい。


そんな毎日に少し変化が起きたのは中曽根さんが声をかけてきたからだった。帰り道、あの、と声をかけられた。きっと、俺を待っていたのだろう。それが自惚れではないのは、寒そうに鼻の頭を赤くしているから分かる。会社の入っているオフィスビルは、この時間になるとひっきりなしに人が出入りするから僅かな暖房くらいじゃどうしようもないくらい、エントランスが冷える。
「……はい」
なんだろう、何を言われてしまうんだろう。ほんの少し、緊張が走る。
「少し、お話いいですか」
「あー」
嫌とは流石に言えない。し、別に嫌なわけでもない。ただ、せめてあったかい飲み物でも飲みませんか、となんとか声を振り絞った。なんせ、中曽根さんはかなり冷えているようにも見えたし、俺としてもここで話をするのは気が引けた。どんな話をするにしても、だ。
とりあえず、と近くのマクドナルドへと足を運ぶ。コーヒーで良い?と尋ねればあ、いや、でもともごもご口を動かしたがやがて、はいと小さな声で頷かれた。二人分のコーヒー、それから念のためと一人分の砂糖とミルクをトレイに載せ、奥の方の座席に向かい合って座った。申し訳ないくらい緊張した面持ちで、中曽根さんは座っていた。
これはもしかしたら、本当にあのアカウントは中曽根さんだったりして、とよぎる。それくらい緊張しているようにみえた。ああでも、ここで期待したらきっとそうじゃなかった時、ショックだろうな。……ショックだろうか。
そんなバカなことをつらつらと考えていると、中曽根さんが小さく息を吸った。吸って、喋る。
「うらどうさん、フォローされてますよね」
うらどうさん。
それは、あのアカウントの名前だ。やっぱり、と思いながら頷く。
「ええ、まあ」
すると、中曽根さんは見て分かるほどほっと息を吐いた。緊張してたんだな、とその様子を見て改めて思う。
どうしよう、この後、実はあれ私で、と言われるのか。いやそんな漫画みたいなことはないってば。たぶん。
「実はあのアカウント」
「はい」
どんなリアクションをするのが正しいんだろう。驚く?やっぱりって言う?あんまりオーバーに反応してもやっぱりおかしいような気がする。どうしよう、そう思ってる時だった。


「私も、好きなんです」


はた、と止まった。たぶん、目はまん丸になっていたと思う。予想の斜め下からのボールだった。私も、好き。あのアカウント、とはまあ、うらどうさんのことだろう。
考え込んでいるとそんな俺の様子に気付かず中曽根さんがはにかんだ。
「うらどうさんのご飯を見てるとお腹が空いてくるというか。私、お腹すいた、って思うの好きなんです」
「俺も」
思わず、食い気味にそう言っていた。半ば、無意識に。そう、お腹すいたって思うのが好き。それだ。
「俺も。いや、お腹空いたって思うの、場合によってはしんどいけど、そうじゃなくて、ご飯を目の前にした時に『お腹すいた』って思うとすごく……すごく、安心するというか。だから、俺、よくうらどうさんの写真、飯食う時とかに見てて、それで」
はた、と喋りすぎたんじゃないか、と気付く。というか、飯食う時に飯の写真見てるとか、はたから見たら立派な奇行だろう。しまった、と恥ずかしさで顔が熱くなるが、中曽根さんはうんうん、と頷いていた。
伝わった。
そう、ポカンとしてしまう。そんな俺に中曽根さんはにっこりと笑った。会社でもよく穏やかに過ごしているけど、そんな笑顔は初めて見た。まじまじと、その顔をつい見てしまう。
「前、たまたま、高城さんの画面が見えて、そこにうらどうさんの投稿が映ってたから、もしかしてって。でも、キモいかなって迷ったんですけど、嬉しくて、我慢できなくて話しかけちゃいました」
嬉しくて、とおうむ返しに呟けばはい、と力強く頷いて、また、嬉しくてと繰り返す。分かる気がした。嬉しい。きっと、この胸の奥でじわじわと広がる感覚はそう呼ぶのが一番しっくりくる。

やっぱり、小説のようなことは起きなかった。うらどうさんの正体は中曽根さんじゃなかったし、中曽根さんは俺に想いを寄せてたりしなかった。
だけど、そんな物語のような出来事よりも、もっともっと、素敵なことが起こったような気がする。


「おれも、うれしいです」
笑い合った。その「嬉しい」は、小学校の時に初めて友達ができた時のように……いや、なんならその時以上に、俺の心を弾ませた。

きみと旅する

携帯が発達して、写真というものは身近になったように思える。だけれど、データとして残すばかりで印刷して手元に残すことが減った結果むしろ遠ざかった。そうも思う。
だからこそ、自分は「旅行の記憶」は印刷するようにしている。実際に紙になるとこんなに撮ったのか、とも思うし、見返すことは楽しい。
「これ、確か道中で買ったお弁当。食べてる途中で写真撮ってないことに気付いて慌てて写真撮ったんだよね」
写真を見せる。写ってるのは、ご飯が半分くらいになって、齧りかけのおかずがいくつか転がったお弁当。行儀が悪いといえばそうなんだけど、「撮り忘れた」と気付いて慌てて撮りたくなるほど美味しかったんだ、となんだか見るたびに嬉しくなる。
「どこの通路かな。たぶん、四国に行った時のだと思うんだけど。なんかの名所だっけ?」
たくさんある写真にはこういうのが結構混じってる。さっきのお弁当の写真もだけど「撮らなきゃ!」と思ったからこそシャッターを切るのだ。そこには、「観光名所だから」だとか、そういう他人に伝わりやすいような理由はない。
それ自体は全く良いんだけど(なんせ、撮りたくて撮ってるのだ)時々、こういうこれどこだっけ?という写真が混ざってしまう。だいたいの場所は他の写真から推測できるけど。
「……尾道。あそこ、こういう路地多いから」
好きでしょ、とようやくそこでまともな返事があって僕はにんまりと笑ってしまう。そんな僕の表情にまた、不機嫌そうに鼻を鳴らされたけど、ちゃんと話を聞いてくれていることがわかった僕には響かない。
「あーそうか、そうだ。坂の上で!もっと眺めの良いところもあったのに」
「……眺めより、こっちの方が好きでしょ」
「まあね」
それは間違いない、と頷く。実際、写真に写る細い路地やその脇にあるバケツだとか自転車だとかのバランスはたまらなく好ましく映るものだった。なんなら確か、これは現像するだけじゃなくて、気に入って待ち受けにしていた記憶がある。
楽しかったねえ、と写真を見ながら呟けばいよいよ不機嫌なことを一切隠さずに顔が歪んだ。あ、やばいなとその顔を見ながら悟る。どうやら思い切り地雷を踏んでしまったらしい。でももともと、この話を始めた時から不機嫌の地雷に片足乗っけていたようなものだろうから今更か、とも思う。
「そんな話をするために、わざわざ呼び出したわけ?」
「そんな話って。え、楽しくなかった?」
「楽しくなかった」
気遣いなんて一切滲まない冷たい声にいっそ笑ってしまった。ううん、どうにも難しい。
「あのほら、次どこ行く?って話がしたくて」
は、と短い息が漏れ出た。ああしまったなあ、とその顔を見ながら思う。まさか、そんな顔をさせるつもりはなかったんだけど。
ただ、ここまでくると引き下がれない。耳をすませながら相手の呼吸を数えた。見逃さないように。そんな僕の様子に気付いたのか、ため息ひとつ零して、また隠れてしまう。さて困った。
「……移動中の、写真が多いでしょ」
シャッターを切るのが「良いと思った瞬間」だから観光名所らしい写真が少ない。それとは別に、そもそも。目的地に向かうためのバスや電車、その車内。その窓から見えた景色。そういう写真がどのアルバムもともかく多かった。
目を伏せた表情に「次は、どこ行こう」と声をかける。すると、真っ直ぐに見つめ返してきた。その目が、あまりに真っ直ぐで少し困る。
「……次なんてないよ、こんなご時世だもん」
「それが、会いにこなかった理由?」
君が写真を撮って、僕に送る。僕はそれを印刷してアルバムにまとめる。それから、お土産と一緒に帰ってきた君とアルバムを覗き込むのだ。お土産を一緒に食べながら、一つ一つ。旅の記録を書き込んでいく。
それはいつからかの僕らの「遊び」だった。なかなか外に出れない自分のために、代わりに色んなものを見てくると言ったあの約束は、子どもらしいといえばらしかったかもしれない。だけど、そんなありきたりな約束を律儀に守り続けるものだから、君のことをすきだなあ、と思う。
まさか、それでそのまま約束を守れないからと会いにこないとは思わなかった。
つい笑ってしまえば「そもそも、こんな時に会うの、危ないでしょ」と唇を尖らせる。
「だからさあ、こういう文明の利器使うんじゃん」
こつん、と画面に触れた。
「文明の利器を使おうが、こんな状況じゃ旅行にもおちおち行けやしない」
「じゃなくてさあ」
いやまあ、それもそうなんだけど。
「移動中の写真が多いからさ。まるで、僕も一緒に旅してるみたいだってずっと思ってた」
駅に行き、乗り物に乗りどんどん離れていく景色に一時だけ別れを告げて。綺麗なものを観て、美味しいものを食べよう。
それもこれも全部、帰ってきた時一緒に笑うために。
「知らなかったでしょ、僕も旅をしてきたんだよ」
君の目を通して。そしてたぶん、それは君が実際の場所で経験してきたそれとは少し違う。だってたぶん、僕は君の「見せたい」という気持ちとも一緒に旅をしたんだ。
「今度はだから、僕の旅の話を聴いてよ」
話したいことがあるんだ、と笑えばいよいよ君は怒った顔を保てない。なんてったって、優しいので。