魔法にかけられて/エンタメに生かされている
この帰りのバスが、事故を起こせばいいと思った。
今思えばとんでもない物思いだけど、あの頃、 バスに乗るたびに思っていた。 乗り込んだ直後は楽しかった余韻で大丈夫なのにどんどんと自分の 住む街が近づいてくると不安が大きくなっていく。 当時はいくらでも無茶が出来たから元の街に辿り着けばそのまま出 勤していた。バスで帰り着いて急いで家に帰り、 シャワーを浴びて身支度をして出勤する。 そんな強硬スケジュールをこなしてでもお芝居を東京に観に行かな ければやっていけなかったのだ。
帰り着けば。仕事をしないといけない。 薄暗い部屋で身支度をしているだけでも不安になってくるから、 買ったばかりのお芝居のDVDを流す。 一度観たお芝居なら覚えてしまった台詞を呟きながら化粧をする。 職場で、私はうまく笑えるだろうか。 お客さんたちに不安そうな顔を見せるわけにもいかない。 いやそもそも東京に行く前にちくちくと言われた言葉たち、 進んでいない仕事の進捗たちをなんとかしないといけない。 迷惑をかけていると分かっている。 分かっているけど言い返したいこともあって、 でもその気力もなく、あーあ、やだ、と思う。
このまま帰路を進むバスが、事故に遭ってくれないか。いやでも、 だめか、だめだよな。乗っている人たちには、人生がある。 運転している人にもある。 そう言い聞かせながら休憩のパーキングエリア、SNSを開く。 タイムラインには自分の思考の中の行儀の悪さとは真反対の楽しい 芝居の熱気がまだあふれている。
ぎりぎりの気持ちが漏れ出して呟いた「 こんな面白いものを観たからまだもう少し頑張ろう」に「 またお待ちしいます」というリプライがきていて、ぐ、 と喉が鳴った。 まだもう少しという言葉を早々に撤回して逃げ出そうとしていた自 分の手を、そんなことも知らずに無自覚に、 お芝居を作ってくれた人たちが繋ぎ留めてくれたような気がした。 そんな夜を何度も何度もあの頃、過ごしてきた。
中学生の頃に演劇に出会い、 なんならその後の数年で少し嫌いになりかけていた演劇に、今、 手を繋がれて生きている。東京の池袋、王子に新宿、 いろんな土地の小さな劇場たち。 そこで短い期間だけ上演されるその舞台たちが観るために生きる。 「もういいかな」 と思うたびに次の観たいお芝居のチケットを予約して、 日々を過ごす。初めは知らない劇団・ 知らない役者さんばかりだった「界隈」 の解像度がいつの間にかぐっと上がっていた。 緊張して喋れなかった面会も「面白かった」と「ありがとう」 を伝えたくて並ぶのが当たり前になっていく。
はじめに好きになったのは、「企画演劇集団ボクラ団義」。 そこから「劇団6番シード」「X-QUEST」「 ポップンマッシュルームチキン野郎」「おぼんろ」 と好きな劇団がどんどん増えていく。 前だったら知らないままだったプロデュース公演を悶絶するように 見たい、と思う。 初めて足を運んで見かけた役者さんのホームの劇団にも興味を持つ 。毎月のように広がっていくあの世界が、あの頃、 唯一といっても良いくらい「息ができる場所」だった。
新卒で入社した会社。 入社前研修でそこそこの結果を出していたつもりだった。 別に極度に不器用でもない。いや、 正確には事務作業だとか苦手なことはあるけど、 仕事ではそこそこ人よりも得意なことを選んだはずだった。 だから、「ちゃんと社会人」になれる。そう思っていた。 ところが、社会はそんなに甘くなくて、 今振り返っても意味が分からないくらいにどんどんぐずぐずになっ ていた。社内で「お前がいるせいで」と言われ、 じゃあもう無理です、と告げれば「期待してるから」 と宥められる。 何がしたいんだよと悪態を吐きながら毎日終電で帰る。 終電で帰ることが出来るだけ、まだマシなのか。
自分が出来ないから悪いのか。出来ないってなんなのか。 どんどん出来ないとことが増えていく。何もしたくなくて、当時、 友だちと待ち合わせ前に入った本屋で頭の中に飛び込んでくる情報 が怖くなって立ち尽くして待ち合わせに遅刻したこともあった。 そんな様子にもう無理だよ、 限界なんだよと諭されながらこれが限界なんだとしたら、 どこにいくんだろうとぼんやり思っていた。 仕事は辞めたかったけど、辞めたとて、 どこにいける気もしなかった。ただ、世界も人間も、 全部やだなと思って投げ出し方だけを考えて耐え忍ぶ毎日。
確か、その日も終電で帰るのが決まっている日だったと思う。 この後出勤してしまえば、 へらへらと笑ってなんとか誤魔化しごまかしやっていくんだろう自 分にうんざりしながら、携帯でSNSを眺める。そこには、 ある一つの稽古場の様子が賑やかに伝わってくるタイムラインがあ った。この繁忙期をもし乗り越えることが出来たら、 観に行こうと決めた舞台。 だからそれまではなんとか毎日を続けるのだと予約画面を何度も眺 めた舞台を作っている人たちの写真や言葉たち。それは、 こんな社会なんだと諦めたくなった私には眩しすぎるくらいにきら きらと光って見えた。「面白いものを作る」 そのために真剣に向き合う人がいること、 しかもそれが楽しそうに見えること。そのことが、 心の支えだった。社会も演劇も一度は「もう無理だ」 と思った世界だったけど、ここと地続きのどこかには、 真剣にそうして生きている人がいるのだ。
視界に見えるそれだけが、世界のすべてではない。 そんなことを思う。そもそも、演劇がそうだ。 なんでもない装置が海にも宇宙にもなる。かと思えば、 誰かのワンルームになり、西部劇の砂漠になる。 役者が一言言葉を発せば、照明が照らし、音響が流れたら。 魔法みたいだ、と思う。 特に大好きな役者さんのお芝居を観る度に、 これは魔法なのかもしれない、と本気で思っていた。 その人が出演するファンタジー色のある舞台をいくつか観たから、 というのもある。 だけど何よりその人の台詞回しにわくわくする度に、 息苦しさが消える。もう嫌だ、がもっと観たいに変わる。
そんな経験を何度もして、呟いたことがある。通勤電車の中、 もう嫌だ、逃げたいと言いたくなる中でなんとか「楽しみだ」と「 好きだ」 をぐっと見つめて考えて言葉にすることでやり過ごしていた毎日の 中で。たぶん、魔法使いなんだろう、 この人のお芝居を観ている間はしんどいことを忘れられるから、 だから、「実は魔法使いなんだ」と言われても、信じる。 そのツイートに、一つリプライがついた。もしかしたら、 そのリプライをくれた人は、 もうその言葉も忘れているかもしれない。
「演劇が魔法なんですよ」
結局、仕事はその「繁忙期のご褒美で予約したお芝居」 を観た少し後に辞めた。メンタルの疾患の前に胃潰瘍になり、 救急に運ばれながらも出勤する様子に実家の両親からも友だちから も止められ、実際、 片道十五分の道にもぼんやりと立ち尽くしてしまって駅まで着くに も何十分もかかるようになっていたから、もう続けられないな、 と思ったのもある。だけど、不思議と「もうだめだ」 と思っていなかった。部屋の中、演劇が流れる。 外に出るのも怖い中で、 携帯の音質が悪いレコーダーで好きなシーンを録音して、 なんとか外に出た。 お日様を浴びると良いとも聞いたから日の光を浴びようと思ったし 、眠れるように運動をしようと日雇いの仕事もいくつかやった。 その間も「大丈夫」だと思った。 仕事をしていた時の息苦しさはなくなっていた。 それは仕事を辞めたからというのもあるけど、 それ以上にお芝居を観たからだ。
繁忙期を終えて、滑り込んだ東京・池袋の「池袋BIG TREE THEATER」。予約日の前日、高校時代の友人と飲んで「 もう全部無理なんだよ」って弱音を吐いた。 だけど舞台を観て心の中でその言葉を撤回する。目の前、 役者さんが台詞を吐く、舞台が生まれる。カーテンコール、 手を叩きながら思った。死んでる場合ではない、全く。だって、 これからもこんな面白い舞台がある。まだまだ、 観たい舞台がある。だったら、仕事で世界を、 自分を諦めている場合じゃない。きらきらと世界が揺れる中、 確信した。あの頃観た舞台の台詞たちは、 今も自分の心臓に血を送る。
まだ、観たい舞台がある。頻度が下がろうが、世界が変わろうが、 それだけは絶対に変わらない。演劇の魔法は、まだ解けない。
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こんな感じで読書や演劇、LDHに星野源、Creepy Nuts、ラジオに日本語ラップ、かまみくと「もう無理だ」と日々を続けていくのを諦めそうになる度に「好きなもの」が増えてなんとか毎日を過ごせている日々の話をエッセイにまとめました。何があっても、好きで私は生きていけると思うのだ。

そんなわけで、9月14日インテックス大阪開催(なんと入場無料!)の文学フリマ大阪にて「そ-26 えすえぬてぃ」というスペース出ます!
6月コミティアで頒布した「とりあえず一杯のんで」の既刊ほか、新刊の「エンタメに生かされている」というエッセイ本が!出ます!
Webカタログにも登録したのでぜひ。
【文学フリマ大阪13 出店!】
📍ブース:そ-26
🗓9/14(日) 12:00〜開催
✅入場無料
🏢インテックス大阪2号館
📕イベント詳細→ https://bunfree.net/event/osaka13/ https://c.bunfree.net/e/f4n #文学フリマ大阪
星の数ほどハッピーエンド
はじめに
あなたにとって、星野源とはどんな人だろうか。逃げ恥のひと。あるいは多くのヒット曲を生み出したひと。あるいはうちで踊ろうが話題だったひと。あるいは音楽、俳優業、文章と多くの顔を持つトップクリエイター。
私にとってもともとは「好きになったらやばいひと」だった。自分の琴線に確実に触れる表現を生み出している。でもだからこそ、好きになってしまえば、何かが大きく変わってしまうんじゃないか。それがある時から「面白いや楽しいを諦めるな」と手を引いてくれる人になった。
これは「星野源はこんなに素晴らしいひとだ」という文章ではない。「星野源はこんな素敵なものを作っている」とお勧めする文章でもない。そのいずれを書くにも私は私自身を役不足だと思っている。
もともと、星野源という存在を数年前から強烈に意識していた。ラストフラワーズという彼の舞台復帰作を観た時から、あるいはたまたまエッセイを読んで「文までもか!」と震えた時から。あまりにも強烈すぎて「好きにはなるまい」と何故か念じていた頃から、もしかしたらいつかこんな風に惹かれることは決まっていたような、そんな気すらする。あの時変な自意識を拗らせ、「好きになるまい」と意地を張らなければいくらでもリアルタイムで楽しめたものがあるのに。そんな悔しさが霞むほど、私はあの二〇二〇年に、彼を好きになって良かった、と思っている。
これは、そんな私の彼が・また彼の作ってきたものが好きだ、という文章たちだ。ああそうだ、これは、私の感傷だ。だけど、大切な感情・思い出であり、だから、今回形にしておこうと思った。勧めるための文章ではない。だけど、もしもあなたが毎日の中、「なんだよこの世界」と思っているなら。なんとなく、もう全部どうでもいいと思っているなら。まだ諦めるには早いと思う。思っているというよりかは願っている、なのかもしれないけれど。
あの時、二〇二〇年。世界中が、体験したことのないような出来事に見舞われて、これからどうなるかわからなかった日々の中。ごくごく個人的な理由から、そうじゃなくても塞ぎ込み、私は「面白い」を手放そうと思っていた。
面白いことが、楽しいことが好きだ。だけど、それを好きでい続けることは同時に傷付く可能性、悲しくなる可能性を大いに孕んでるんじゃないか。そう思って、ほとほと疲れてしまった私は自分にとって大切な楽しいや面白いを手放そうと思っていた。そうして生活した方が結局、回り回って、心穏やかに過ごせるんじゃないか。退屈でも、傷付かずに済むならその方がよほどいい。
今思えば何を言ってるんだ、と我ながら思うけどあの頃は結構本気で、そう思っていた。そんな中出逢ったドラマ『MIU404』。「面白いことを手放そう」なんて思いが吹き飛ぶほど強烈に面白くて楽しくてバクバクした心臓に「諦めるなんて無理だ」と心底思った。それから、だんだんと好きになるまい、と思っていた星野源さん自身にも興味を持ち、音楽や他の作品、エッセイ、ラジオと触れ出した。
そこで、源さんは繰り返し「面白いことしよう」と言い続けていた。面白いことしよう、楽しいことしよう。それをまさしく手放そうとしていた私にとって、その言葉は「こっちだよ」と照らしてくれるような存在に思えた。
私はどうしようもなく面白いことも、楽しいことも好きだ。それを手放そうなんて土台無理な話だし、そんなの、絶対にやらない方がいい。そんな当たり前のことを、私はしばらく忘れていた。
繰り返すが、これは星野源さんの作品たちの解説でもオススメする文でもない。ただただ、星野源さんが好きだと書き連ねただけの文たちである。それをわざわざこうして残すのは、あの夜、強烈に照らしてくれたおかげで、進んで来ることができたからだと思っているからだ。
面白いことしよう、楽しいことしよう。その言葉に支えられてきて、私も私なりの面白いや楽しいをやっていくのだ、と今、思っている。これはそんなこれまでの感謝とこれからの決意表明でもあるのだ。
金曜の夜の約束(MIU404・ドラマ)
自分の人生にとって大切な作品は、と聞かれると、私はかなりの高確率で『MIU404』を挙げる。
あの時、私は気持ち的にズタボロで結果としてなるべく心を動かさないぞ、と決めていた。動かさないぞとも思ったし、全てのエンタメが実質止まっていたようなあの頃、動かせやしないだろうという諦めもあった。
私は今まで自分の好きなものを楽しみ、面白いことにわくわくしながら毎日を送ってきた。そんな人間にとって当たり前のように飛び交う「不要不急」という言葉は自分の内側をガリガリと削っていた。その中で、ぼんやりと記憶に残していた楽しみにしていた春のドラマが六月、いよいよ放送になるらしいというニュースを聞いた。あの頃は、ドラマが新しく撮られることが本当に難しく、放映延期の知らせばかりだったから、ああそうだった、とぼんやり受け止めた記憶がある。当時は大好きな野木さんの脚本にこれまた好きな橋本じゅんさんが出る、というその一点だけで楽しみにしていて、だから放送前特番も全てぼんやりと見逃し、でも、なんとなく、金曜夜にテレビの前に座った。
あの時の強烈な衝撃はきっと、永遠に忘れないと思う。地上波ドラマでのカーチェイス、人を覚えるのが苦手な自分でも一発で覚えてしまうほどハッキリとした魅力的な登場人物たち。聴いていてワクワクする会話に心を躍らせて、そして、何より終盤のエンディングがかかるシーンに、心が湧き立った。多分あの瞬間、体温が確実に数度上がった。
やべえ! 面白い! と叫んで笑って、それから気が付けば蹲って泣いていた。来週になれば、この続きが観られる。それは、久しぶりの「未来の約束」だった。楽しみだ、嬉しい。その感覚は自分が忘れよう忘れようと努力していたものだった。だけど、諦めなくていい。絶対にこのドラマは来週も同じくらい、ドキドキワクワクさせてくれるんだ。
そうして二話、三話と回を重ねるごとにその面白いは変わらないまま、どんどん彼ら登場人物たちへの愛着が増していく。
二〇一八年に作られた『アンナチュラル』が被害者に寄り添う物語だとしたら、『MIU404』は、どちらかといえば加害者側に立つ物語だと思っている。それは、機捜という仕事の性質上、最も早く犯人に近付き、そしてそれが最悪の事態になるまでに止めようともがくからだ。そしてはそれは被害を最小限にするためであるのと同時にこれ以上罪を重ねて犯人が苦しまないためでもある。
どの話も行き過ぎたバッドエンドでも、都合良いハッピーエンドでもなく、出てくる人たちも超人的なスーパーヒーローや悲劇の人、どうしようもない極悪人でもない。
『MIU404』で一貫して描かれたのは地続きの、私たちと同じように働き時には悪態を吐き、それでも少しでも正しいスイッチを押したいと思う、押そうとする人たちだった。
ところで、スイッチの話である。人のこれからを左右するスイッチ。そのスイッチは押せないんじゃないか。もしくは気が付いたら押してしまってる、あるいは振り返って押せなかったと後悔する。そういう人間にはどうしようもないものなんじゃないかと思っていた。だからこそ、正しい方のスイッチを押せますようにと祈るしかできないのだと。
私にとって祈るということはもしかしたら「そうならない」と思っているということかもしれない。そんなことはありえないと思うから、祈る。せめて、という最早破れかぶれに近い感情でせめて、と祈っていた。
幸せでいてくれますようにと私が祈るのは、一点の曇りなく幸せでいることは難しい……いや不可能だと思ってるからだ。そんなことを八話を観終わった後に考えていた。人は人のスイッチに意図的にはなれない。こうなればいいと痛いくらいに思うことしかできない。
それはある意味で、最終回で久住と伊吹があの海のそばで話していた内容に近い感覚があった。神様の裁量。時々、人は自分を神様だと勘違いしているかのような傲慢さでそれをできている、と勘違いしているけど、そんなことない。人は、スイッチを意図的に押すことなんてできるわけがない。だとしたら、なんて虚しい。意味なんて、ないじゃないか。
そんな悲観的な感情は、最終回で見事に砕かれた。陣馬さんが目を覚ます。それは、色んな人が陣馬さんな目を覚ますようにと祈って積み上げてきた小さな善意がスイッチになった。そしてそれは回り回って404の「最低の事態」を回避するスイッチになる。それだって「意図して押したわけじゃない」と言ってしまえばそれまでだけど「押したい」の積み重ねが形になったのは間違いないわけで。
ずっとそうだった。『MIU404』は、容赦もないけどその上で、人の善意というか、善意じゃないな、なんか「善く在ろうとすること」を描いてくれたような気がする。
現実はそんなに甘くないと冷笑することは簡単だ。だけど、それよりも信じて祈って足を動かし、手を伸ばして「少しでもいいほうに」進もうとする。「間に合う」ことを願い、足掻き伸ばした手が届くことを描いた。それを私は、エンタメの誠意だ、とも思う。
もちろん、ハッピーエンドであること=誠意というつもりは毛頭ない。それでも『MIU404』があの形の物語になったのは「彼ら」が「今」作った結果だと思っているし、その唯一無二という意味では、間違いなくそれは誠意なのではないかと思う。
毎週、この時間になれば「絶対にワクワクできる」。その約束がどれだけ心強かっただろう。 どの話も面白かった。何より、それが大きい。面白くて、金曜の二二時には絶対にわくわくできる。ドキドキして頭の中をぐちゃぐちゃにするくらいの、エンタメに出会える。
今回、インタビューや鼎談含めて楽しんだ位大好きな作品になった『MIU404』。伊吹藍役の、綾野剛さんの言葉が頭に残っている。
「…人との距離が空くっていう、二メートルっていう距離がテレビっていうものを通してだとか、 音楽っていうものを通して、縮めることができるのか。わからないけど、信じてやる」
そうだ、物凄い熱量としかしそれに振り回されずに見つめ抜く冷静さで作られたドラマはきっと、祈るように押されたスイッチだった。そしてそれは、確かに今の自分にとって必要なスイッチの一つだった。
エンタメは観る人の地獄や絶望を救ったりしない。どれだけその世界で心を躍らせようが、終われば容赦ない現実が待っている。でも、その「心躍らせる時間」を作ったのが同じ「人」なら。地続きの「人」なら。それは、掛け替えの無いエールなんじゃないか。 そうして、極め付け、あの二〇二〇年に本当に「地続き」になった404の彼らに目を奪われた。びっくりした。ちょっともう、それは、ダメ押しがすぎるじゃんか! と笑っちゃいすらした。
「間違えてもここからか」、と志摩が笑い、「そういうこと〜!」と楽しそうに返す伊吹の姿を、0地点から、という言葉を目に焼き付けた。
自分を切り離してエンタメを楽しめないことが時々情けなくて心底嫌になる。それでも、やっぱり私は、こんな風に楽しむことができるエンタメが好きだ。
分かるよ、という言葉が追いつかないことがいくらでもある。自分の内側にあるものをどうあっても届けようがないんだということに誰かの内側にあるものを寸分間違えずに理解できることはないんだということにどうしようもない気持ちになる。
それでも自分を重ねて、誰かを重ねて、心を揺らせるエンタメが好きだ。この形で触れなければ、共感どころか想像すらできなかったものを知ることができる、触れたと勘違いできるエンタメが好きだ。答え合わせをすれば、全く違う景色を見ているかもしれない他人同士が笑い合えるエンタメが、好きなのだ。
それを思い出すことが出来たのは、きっとこの諦めず、ひたすらにもがいて働き、生きている彼らの物語だからだったように思う。
物語が完結し、野木さんのシナリオブックでの「生きてください」に励まされ、四年。折れそうになるたび、もうどうでもいいと投げ出しそうになるたび、志摩が、伊吹が、陣馬さんに九ちゃん、桔梗さんが頭の中で声をかけてくれた。そんな四年間だったように思う。その物語の世界が続いていた、という知らせを受けて飛び上がるほど、嬉しかった。物語の人々と生きるということを、改めて私はこの作品を通して知った気がする。
少しでも、一つでも多く、良い方へと進むスイッチを押したい。あれからずっと、私はそう思っている。
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全部を諦めようと思っていた。面白いことも楽しいことも望まなければもうちょっと楽になれる気がした。
そんな中、ずっと「好きになるまい」と思っていた星野源の表現に出会って、やっぱり諦めたくない、と思う日々のエッセイ集です。
好きも、面白いも、楽しいも。何一つ諦めないと今は思います。
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6月1日東京ビッグサイトで開催のCOMITIA152!むせお(@takikomisan )と合同サークルで出ます!
東2け11a「えす、えぬ、てぃ」
既刊のエッセイも持っていきますが、メインは新刊の小説の予定!小説!出ます!ほぼ書き上がりました!
118ページの「とりあえず一杯のんで」という小説です。これが書きたかったんだ、と思える本にはなりそうで、安心してます。
そして!お品書きができました!!

できました、というより、友だちが作ってくれました。なんか、もう、まじで「人に恵まれている」が過ぎる。可愛くて見やすい素敵なお品書きなので、ぜひ見てください。
コミティアという漫画の祭典に、果たして文字サークルで出ていいものか、とは(規約上はOK)思うけど、でも出たい、なので、出ます!
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たとえば こんなかんじ
はじめに
この間、仕事中雑談をしていて驚いた。最近は、なにか「自己表現」をすると「イタイ」になるらしい。「イタイ」だったり「黒歴史」だったり、要は「やっちゃってんな」という認識になるらしかった。三十代になり、自分がうっかりすれば「面倒な先輩」になりかねないと気付いて最近気持ちを引き締めていたけれど、そんなところにもジェネレーションギャップを感じてしまうとは。
いやもちろん、私が十代、二十代の時だってその「イタイ」という空気はあったような気がする。気がするけれど、なんだかんだみんな個人サイトで……いわゆる自己紹介サイトだったり、付き合っている恋人同士がカップルサイトを作って交換日記をしたり……自己表現というか「自分の話」をするのが当たり前みたいな空気はあった。もしかしたら、あれは結構自分が特殊な環境にいただけだったのかもしれない。紙一重のところで自分の気持ちのようなものがずたずたになるリスクと背中合わせだったことを知り、なんならちょっと胸をなでおろしてしまう。たぶん、私はラッキーだったんだろう。
だけど不思議なのは、私が学生だった頃以上に、ブログなどだけじゃなく動画配信・音声配信が手ごろになったのに、そういう認識なのか、ということだ。なんだか勝手に総配信者時代なのかなぁと思っていたが、そんなことはないらしい。変に黒歴史を作らず、表現せず。そういうのが賢い、というのはいまだに、いやなんならより強固なものになって、存在するんだろうか。
とはいえ、こうしてこの本を手にとってくれる方はそれを黒歴史、と呼ばずむしろ何かしらの興味を持ってくれるたちの方なんだろうな、と想像する。改めて思うと、それってかなり奇跡的なことなんだろうし、本当にありがたいことなんだな。
私は文を書くのが好きだ。ラジオを聴くのが高じて「ラジオごっこ」と称して、不定期で好きなものの話をする音声コンテンツを配信している。自己表現を黒歴史だと呼ぶのなら、すごい勢いでそれを量産しているといってもいいかもしれない。だけど何と言われようが、私はこれが好きで、好きで好きで仕方ないのだ。
好きなものの話をすることが好きで、その「好き」をひたすら形にするというコンセプトで友だちを巻き込み「星座と灯台プロジェクト」をやることにした。プロジェクトというのもなんとなく語感がよくて私が勝手にそう呼んでいるだけだ。ただただ好きなものを、見上げて癒される星座や道を示してくれる灯台に例えてひたすら「これが好き」という話をする。文などに形を変えて、好きなものの話をし続ける。
この本では、普段やっている「コンテンツ」に対しての好きじゃなくて、こうして何かを書いたり喋ったりする「表現すること」が好きだ、という話をしたい。黒歴史と呼ばれることがあるらしいと知ってもなお、というよりもむしろ知ったらなおさら「でもこれをやりたいんだ」と思ったことを形に残してみたい。
決して、自分で文を書くことがうまいとも、三年やってみてラジオがうまくなったとも思えない。ただただいまだに衝動的にやっているだけのこれが、自分にとってどうしようもなく大切らしいと最近改めて思った。大切なんだとしたら、形にして、大事にしていきたい。
はじめまして、つくといいます。これは、私がただただ、文を書くこと・ラジオでしゃべることが好きだという話をしている文章です。良ければ、黒歴史と呼ばず面白がってくれる奇特なあなたにほんの少しお付き合いいただけると嬉しいです。
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普段は好きなものについてのエッセイを主に書いてますが、そういえば私ってこういうのも好きなんだよな、と自己紹介代わりにまとめた短いエッセイ集です。
文を書いたりラジオごっこをやったり、働いたり。

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推しラジオが終わったから本を作ることにした。
はじめに
好きなラジオが終わると聴いた時、私は結構困った。毎朝、そもそもテレビを点ける気がなく、かと言って無音の中で生活ができるわけでもない。だからこの三年私はほぼ毎朝ラジオを聴いていた。三年前はまだ聴いてる番組が少なく、だからなんとか聴ける限りの聴取期間いっぱいをぶん回して、好きな人たちの喋りを聴く。
フリートークをいつの間にか覚えてツッコミを入れられるようになっても、それでも私はずっと朝、何度も聴いた同じ番組のラジオを聴いていた。だけど、そのうちの一つ、大切な毎週の時間が終わってしまうらしい。
どうしようもなく塞ぎ込み、何もしたくないし誰とも話したくないような気持ちの時もラジオを聴けばなんとかなる。そんな気がしていた。逆に、ラジオが聴けないという時もあった。その周囲にあるノイズに掻き消されるような心持ちがあって、そういう時はラジオきっかけで出会った音楽をかけてあーあ、とため息を飲み込みながらなんとかやり過ごす。聴きながら頭の中でこの音楽たちに出会った回の放送を思い出したりもする。聴くことがしんどくなった彼らの会話を脳内再生しながら、ああやっぱり彼らを通して出逢えて良かったな、と確認して音楽を聴いているといつの間にかまたラジオが聴きたい、と思う。
とどのつまりは、ラジオがずいぶん長いこと、私の生活の真ん中にあったのである。
好きなラジオが終わるという時、この自分の中で収まりきらない「悲しい」とどうやって向かい合おうか考えていた頃、急に「そうだ、本を出そう」と思った。書き溜めてきたブログと、あとラジオについて書きたいいくつかのネタをまとめて整理して一冊の本にしよう。きっとその中心には、お別れするラジオ番組がある。でも、そのラジオ番組ひとつの魅力を言葉にするのではなくて、そういうのがやりたいんじゃなくて、ただただ、この大切を覚えておくために何か「ものづくり」をしよう。
思えば、ずっと「お前には無理だ」と諦めてきたやりたいことに手を出すきっかけをこの三年、ラジオからもらっていた。あまりにも身近なまるで友だちみたいな距離感に彼らはラジオの周波数を通して、居続けてくれた。そうしてその距離感でげらげら笑ったり真剣に話したりしながら、彼らもまた色んなものを作っていくものだから。それが本当に苦しそうで楽しそうで、格好良かったから。
だから、私も何か自分の大切なもののためにものづくりがしたくなった。言葉にして残しておきたくなった。その彼らからもらった時間のことを、なんと呼んだら良いか分からないこの心内を、一冊の本にしたくなった。
そうして、今、あの知らせを聴いた時、あるいはもっと前、ラジオの魅力にどんどん引き込まれる度に書いた文、思っていたことをまとめ直して思う。私は本当に、幸せな時間をラジオからもらってきたのだ。そしてそれは、これからも続くんだろう。そんな願いを込めた文たちに少しお付き合いいただけると嬉しいです。
発表後の数週間の記憶に残っていない神回について
終わることが発表されてから、ラジオがまたどんどん面白くなっていった。そう思う度に複雑な気持ちになるけど、それが私の正直なところだ。ずっとずっと面白かったけど、さらに勢いを増してる気がする。
なんならそもそもラジオの終わりが告げられた一月十六日放送の回も、終わりを発表したあのパートを聴くのがハードルが高くくり返せていないのが悔しいほど、大好きな回だった。前半の志摩スペイン村の話はとんでもなく意味不明でバカバカしくて、私はタイムフリーだからなんの話がこの後待ってるのかが分かっているのに、げらげら笑いながら聴いてしまった。
それから以降、毎週、本当に楽しかった。大切な放送が一回減ってしまう、その度に最終回が近付いて確かに寂しいのに毎週毎週、本当に楽しかった。私は毎週聴きながら、どの回だって今まで好きだったけど、それでもこの最終回が発表されて以降の毎週神回が続いていたあの状況はなんだかいろんなものが異常だったと思う。それは、まるでJAMで今配信されているオールナイトニッポン0が始まった直後のような放送だった。そう思うのは、ちょっと感傷が過ぎるのかもしれないけど。
その場で即興的に言葉を重ねていく。ラジオがあと何回で終わるのにこんな話してる場合じゃないという残り数回の時にはお決まりになったトークもまるで関係なく、二人がずっとくだらない話をしたのが好きだった。
それはある意味で、最終回、私たちが勝手に期待した「良い話」や「特別な話」なんて関係なくいつも通りの放送をしたのが最高だった、その感覚と通じるものがある。そういうところがあの数週の放送にはあった。
中でも印象的だったのは……いや正直に言えば全回感想を書きたいくらいなのだけど……カフ王とイカの回だった。書きながら、意味のわからないキーワードだな、と思う。朝起きてタイムラインを見ながら意味が分からなくて笑い、お弁当を作りながら聴いて笑い、通勤しながら続きを聴いて笑った。ずっと意味がわからなくてでも最高に面白くて、ああそうだ、これが好きなんだ、と聴きながらつい天を仰いだ。あの時に見た通勤の道と空を私はよく覚えている。
福田さんが構成作家に入っているし事前の打ち合わせもあるとは思うけど、ほぼ、その場のノリ、その場で決まったこと、思い付いたことがどんどん展開されていく、そんなラジオが好きだ。さらに言えば、二人のあの絶妙なコンビネーションで全力で相手に乗っかっていく、そんなところが私はたまらなく好きなのだ。
その上、二人の会話はすごい速度で相手の話に乗っかる、あえて乗らないが判断されていて、それがどんどん繰り返されてすごい展開を見せていく。相手の即興の思いつきを広げ、戻し、ひっくり返す。その息のあった呼吸はもう職人技である。私は、これが好きなんだな、と思う。即興的に生まれる馬鹿馬鹿しい与太話。それはどちらかがいれば生まれるものではなくてRさんの神がかり的な発想力、松永さんの読みの鋭さが掛け合わされて無限大になるのだ。そこにいつものハガキ職人たちが乗っかり、油を注ぎまた速度が上がる。
あんなに楽しくて馬鹿馬鹿しい時間があったことを今こうして文に書くために振り返りながら、すごいな、と思う。カフ王とイカなんて、思い出してもよく分からない。なんでそんなことになったんだよ、と思う。だけど、そういう中で生まれたパンチラインや予想外な流れにげらげら笑うのが、私は好きだった。何より、そこで二人が楽しそうに笑っているのが、すごく良かったのだ。
最近思う。ラジオで聴いた話を忘れても良いんだ。忘れて、細かいところが出てこなくても良い。というか、特にくだらない話は土台、ずっと覚えておく方が無理である。でも、なんというか、そういう「ああ楽しかったな」という時間はきっと、なくならない。振り返って、例えば誰かに話しても「何が面白いの?」と聞かれるのかもしれない。実際にあの放送を聞かないと分からないものもあるだろう。だけど、それで良いのだ。というか、それが良いのだ。
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ある冬の日にやってきた「ラジオの終わり」の知らせをきっかけに、自分にとってのラジオがなんなのか考えたくなって、そしたら1冊の本ができました。
ブログの再録ほか、半分くらい書き下ろしのエッセイ集です!

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できました、というより、友だちが作ってくれました。なんか、もう、まじで「人に恵まれている」が過ぎる。可愛くて見やすい素敵なお品書きなので、ぜひ見てください。
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とりあえず一杯のんで
【私の話、もしくは喫茶店にて】
物語を、書く。と思いながらノートを開いた。場所はお気に入りの喫茶店、と言えたら格好いいけれど、残念ながらチェーンのカフェだ。長居になるかも、とわざと少し早めの時間にやってきたおかげか、店内はまだまばらでこれならしばらく作業をしながら過ごしても罪悪感はわきそうにない。とはいえ、ただのコーヒーを頼むのは気が引けて大きめサイズのコーヒーとセットに、とソフトクッキーを頼む。名物のソフトクリームがのったやつにしなかったのはどうしたって作業をしながら食べるにはどんどん溶けていってしまいそうだったからだ。
さて。ボールペンをくるくると回す。よく見るような器用なペン回しではなくたどたどしく指の合間を動かすだけの私のペン回しは、そのまま思考の迷いを映し出すみたいだな、と思った。目の前に広がっているのはなんの変哲もないノートだ。手帳サイズのそれは方眼ノートのようになっているので、絵を描くのには向かないが、文字を書き連ねたりするにはちょうどいい。つまり今の私にはうってつけのノートだ。ここに私はこれから、物語を書く。
書けるのか? と思う。自信をもって書けると宣言できるほどの書きたいことが今の私にはない。書こうと決めはしたけれど、どんな話になるのか、どんな人が出てきて、何が起こるのか、何を書きたくて書くのかは、分からない。……いや、何が書きたいかは分かっている。
コーヒーがやってきた。なみなみと注がれたそれとクッキーをお礼を言いながら受け取って一口飲む。苦い。だけどその苦さのおかげで、頭がきりっとしたような気がする。書きたい、書こう。
私は、書く。いつかあった出来事を、誰かと話した今でも時々思い出してはお守りのようにすべすべと手触りを確認するような大切な会話を、お茶やお酒を飲みながら過ごしたあの時間のことを。日々のイヤなことに埋もれてしまっていることを掘り出して、形を確認するために、書くのだ。
すっと周囲の音が聞こえなくなるような気がした。いいぞ、この調子だ。まずは、彼女の話から。
【山崎ちゃんの話】
海沿いの大きな公園……公園、と言っても遊具などがあるわけでもない。大きな広場と、遠くの観覧車。もしかしたら、歩き回れば遊具もあるのかもしれないが、そんな気がしないくらいただっぴろい……は、海沿いなだけあって、風が強い。寒くなくてよかったね、と到着した時は言い合っていたが、陽が落ちてきたのもあって、そろそろ寒かった。
「もうちょい厚着してもありだったね」
「確かに」
言いつつ、ホットの缶で暖を取りながら山崎ちゃんとふたり、公園のベンチに座る。昼間なんだかんだと歩き回ったこともあって、身体には心地いい疲労があった。朝も早かったしな、と思いつつ、一緒にいるのが最悪喋らなくても居心地がいい相手でよかったな、と思う。そもそもそういう相手でないとこうしてここまで来ていないだろうことはさておきとして。沈黙が苦痛ではない相手は有難い。だけど同時に、私はこの子に楽しく一緒に話していてほしいんだよな、と思いながら約一ヶ月前の出来事を思い出していた。
「無理かも」という言葉を聴いて、私はどうしても、なんの言葉も出てこなかった。頭って結構こういうときポンコツになるのだ、と思う。
安いチェーンのカフェはざわざわとうるさい。お昼時やおやつ時は避けて、半端な時間に待ち合わせをしたつもりだったけど、休日のカフェには時間なんてそんなに関係ないのかもしれない。こういうとき、と思う。こういう時結果として「この店のチョイスでよかった」と思うかどうかは「結果」が出てからしか分からない。そういう思考すら、ちょっと現実逃避的だという自覚はあった。
目の前、まじまじと山崎ちゃんの顔を見る。髪の毛はきちんと整い、一部だけ色が入っていて似合っていると思うし、化粧も丁寧にされている。なんでもない話をしていても違和感がないくらい「いつも通り」で、なので、むしろそれが悲しく感じた。もしも「無理かも」が本心で、深刻なものだとしたら、こうしていつも通り、になるためにどのくらい彼女は無理をしたんだろうか、と思う。急に店内のざわざわしたうるささに不快感すら感じそうになる。これは大いに八つ当たりだ。八つ当たりだし、動揺を誤魔化そうとしているのだ、と無駄にポップに感じるキャンペーンを知らせるメニューを睨みつけた。
山崎ちゃんは、学部の友だちだった。と言っても、同じゼミではない。専攻が若干関係するからか、それとも教授同士が仲が良いからかたびたび発表や授業を一緒にやっていて、そうした中で知り合った。最初こそ「仲良くなれないだろうなぁ」と思った記憶がある。ツンとしているように見えた、と言うと少し自分の主観すぎるかもしれない。大学の研究にそれぞれ真剣だと思っていたけど、その「真剣」のベクトルがちょっとずつ違った。私はとりあえず周囲のゼミのメンバーと仲良くして波風立てずにやっていこうとしていたし、逆に山崎ちゃんは馴れ合い的な関わりを避けているように見えた。
とはいえ、人付き合いが下手なようにも思えなかったし、愛想が悪いわけじゃない。私にはそういうところが余計に「無理やり人付き合いをしない格好良さ」に思えて「仲良くなれねぇ」と思った。あまりにもそれは人にへらへらと関わってやり過ごそうとする私のコンプレックスを刺激してきたのだ。
それが、ある日の打ち上げ(もはやなんの打ち上げだったかも覚えていない)でなんとなくお互い輪に入らず(私については「入れず」)缶チューハイを片手に喋るでもなく一緒に立っていた。輪の中でにぎやかに話す同級生たちに冷めた目をしていた我々はほぼ同時に「おもんな」とつぶやいた。驚いて、ふたりで顔を見合わせる。
そういう隙を見せなさそうな山崎ちゃんの本音らしい呟きが意外だったし、後日山崎ちゃんからは「人付き合いが好きそうなしばが、ああいうことを言うのが意外だった」らしい。お互いがお互いになんとなくフィルターを通してみていたらしい。それを外して互いを見たことで自分と波長が合う人間なのでは? と気付いて以来、なんだかんだと話をするようになった。
でも一番のきっかけは、演劇だ。なかなか他人に理解されなかった「演劇」という趣味を共有できたことが私たちの関係を一気に親しくした。でもそもそも共有したのは何がきっかけだっただろう。
「しば、演劇好きなの?」と話しかけられたのか、それとも、山崎ちゃんは劇が好きらしいと聞いて私が自分が好きなお芝居のDVDを勧めたのだったか。一歩踏み出したのがどちらだったのか覚えていないけれど、それならと貸した一枚の演劇のDVD。今でも、そのお芝居のことを私は大切に覚えている。
そもそも、他人に自分から「演劇が好きだ」と言うことは難しい。言って「ロミジュリみたいな?」と言われるのも「宝塚?」と聞かれてそれも素敵だと思うけど普段自分が主に観ているのは少し違うのだ、と説明することも、さらにはそこから理解してもらうのもどちらも難しい。いわるゆる客席が二、三百の「小劇場」と呼ばれる世界。私は、それが好きだった。汗が肉眼ではっきり見えるような、客席同士が近くて隣の観客と触れ合うようなその世界でしか味わえないような熱量、物語たち。そういう演劇が好きだったけど、それを他人と共有するのは苦手だ。
「どんなやつ観るの? え、東京? わざわざ? 誰が出てるの? え、知らないや。なんでそういうの観てるの?」
そんな質問攻めに答えていると思いがけず傷つくこともある。好き嫌いの分かれるものだと思ってもいるので知らないならお互いに「知らない」ままで良いじゃないか。「小劇場」に出会って何度かの失敗を繰り返し、私はそんなことを思っていた。
それが、山崎ちゃんにはつい「このお芝居を観てほしい」と勧めていた。親しくなっていく中でもしかしたら「面白い」と思ってもらえるかもしれないと夢を見た。何がきっかけかは覚えていなかったけど、そんな風に思ったことは覚えている。貸す時はひどく緊張したし「感想とかは良いし」と逃げを打った気もする。好きになってほしい、とは思わない。そこは好みだ。だけど、もしも揶揄われたり理解できないと距離を置かれたらとてつもなく悲しいだろうな、と思う。その度にそんな人じゃないはずだ、と何度も思い直した。
それからしばらくして、DVDを返してくれる時、彼女は私が想像もしなかったような熱量で感想をくれた。印象的だったシーン、好きだった役者や、感動した理由。面白かったシーンの話をする時には二人して台詞を言い合ってけらけらと笑った。
何より。何より嬉しかったのは、好きだったシーンを言う時に「あの首の角度がさ、あの役の悲しさを表してたよね」と言われた瞬間だった。ささやかなシーンだった。その中の台詞でも表情でもなくて、首の角度! どれだけ山崎ちゃんが真剣にあのお芝居を観てくれたかが分かった。すごい、伝わるんだ。同じように思うことがあるんだ、楽しいと思ってもらえるんだ。それからは、互いにそれまで以上に自分の「好き」を共有するようになる。
そうして更に踏み込んで話せば、思った以上に話が合った。合わないことも含めて話していて楽しい。そうしてある日、しばだから信頼して言うけど、と山崎ちゃんは自分も物づくりをするのが好きなこと、それを仕事にするかは迷っているし出来るか分からないけど「作る」のが好きなんだという話をなんでもないように打ち明けてくれた。作ったきらきらのアクセサリーたち。そのどれもが可愛くて山崎ちゃんの顔と見せてくれた写真を見比べる。飛び跳ねたくなるくらいに嬉しかった。その頃にはなんでもないように話していてもそれが山崎ちゃんにとって勇気を出して言ってくれたことも、その「信頼」が本物であることも痛いくらいに分かっていた。
私も、演劇が好きで、実は自分でもこっそりやっているのだ、と思わず漏らしてしまうくらいには嬉しくて、その信頼に応えたいと思った。その時はお互いにやりたいことが、やりたいように出来たらいいね、と笑い合っていた。
そうして、四年に上がって程なくして。制作に携われるかは分からないけれど、とデザイン関係の仕事に就くことが決まったと山崎ちゃんから聞いて二人ではしゃいで喜んだ。私は、あっさりと演劇を仕事にすることについては諦めてしまっていた。どう考えても向いていないと自分に見切りをつけた。だけど、いやむしろだからこそ。山崎ちゃんのその一歩を嬉しく思ったし、勝手にうまくいきますように、と願った。ああして何かを熱量をもって愛せるひとが作るものは、素敵なはずだから。
ゼミの活動で活発に交流をしていた相手とは卒業後、ほとんど関わらなくなっているのに、山崎ちゃんとはいまだに度々集まってはここ最近の自分の良かったこと、面白かったことを共有する関係が続いていた。今日は、そんな中で久しぶりの約束だった。
大学時代、キャンパスにいればなんとなくで会えたあの頃とは違う。約束をして、予定を合わせて。そうしてようやく会える間柄にいつの間にかなっていた。それでもそうしてでも会いたい、と思える友だち。それが私にとっての山崎ちゃんだった。ただ、今回はその中でも少し、前回会ってから時間が開いてしまっていた。今までは職場が違う中でも一ヶ月に一度程度は会っていたのに互いに忙しくて、数ヶ月が経った。前回会った時よりも、彼女は線が細くなってしまったような、存在そのものが小さくなってしまったように見えた。
予定を相談していた時から、いやなんならその前、SNSでの彼女の様子を見るに今回の会合が、「いつもどおり」なんて思っていなかったし、そもそも、だからこそ誘ったところもあった。ここ最近、山崎ちゃんは疲れていた。疲れているだけならいい、傷付いているようにも見えたし怒る気力すらないようにも見えた。怒っているならいい。対処のしようがある。友だち同士、今の抱えている問題を一緒に怒ることもできる。だけど傷付いて怒る気力もないくらいに疲れ果ててしまっているなら。その怒りは山崎ちゃんが一人抱えることになる。そもそも、どんな時だってその人の感情を預かることなんて出来ないけど、かといって発散も出来ないそれが彼女の心の中で腐ってしまうような気がして嫌だな、と思った。だから、ダメ元でこうして一緒に会って話をすれば、と思った。だけど、そんな自分の目論見は驕りでしかなかったんだろうな、と草臥れた様子の山崎ちゃんに言葉を見つけられずにいる自分にがっかりしながら気付いた。
「なんかごめん、気を遣わせてる?」
こんな時でも山崎ちゃんは笑ってそんなことを聞くのでそんなことはないと力いっぱい首を振った。確かに「どうしたらいいんだろう」とは考えている。でもそんなのは、私がやりたくてやっていて、だから、山崎ちゃんのためなんてことではない。
「やー、なんか、うまく話せるかは分かんないんだけど」
「うん」
「聞いてもらっていい?」
そうして、彼女はこの数ヶ月の話をした。仕事のこと、そこで働く人々のこと。自分なりに、夢を叶えるために努力したこと、勉強したり周りとコミュニケーションをとったり少しでも前に進もうとしていたこと(実際、前に進んでいたんだろう、彼女はそういう人だった)
だけど、と思う。山崎ちゃんも「でも、そうじゃないんだろうね」と呟いた。それは私にも分かるような気がした。同じように夢を叶えようと具体的に努力しているわけではない。わけではなくても夢とかけ離れた「普通の仕事」でも価値観の違いに、仕事への姿勢に傷付くことがある。どんな仕事であっても他人と関わらないわけにはいかず、その時、その違いを埋めるためにコミュニケーションをとることは必要だ。必要だけど、もしそれがなんの意味もなさなかったら?
ふと学生時代、どれだけ話しても伝わらなかった演劇の話を思い出す。仕事じゃなくてもあんな風に傷付いてきた。だったら、仕事だったら? 受け入れるべきだと思うだろうか。それはそうだ、と思う社会人に慣れてきた私もいる。だけど、そうして受け入れて死んでしまう心はどうしたら良いのか。譲った分、失くすものだってあるんじゃないのか。それを失くしたくないと思うのは、果たして覚悟がないことなのか、私には分からなかった。
それが、夢を叶えたくて進んだ場所ならどれくらいの痛みになるのか、私は想像するのも烏滸がましいような気がした。相槌を打つのが精いっぱいな私に山崎ちゃんは、最後言う。
「なんでこうなっちゃったんだろう」
体調が悪いという。食欲も落ちて、眠りも浅い。仕事を休むか、辞めるべきだと言われていること。心身のことを思うなら、自分もそうしたほうが良いと思っている。作ろうとしたことが間違いだったのか、仕事にしたいと思ったことか、そう思いながらもなりふり構わず仕事を出来なかったことか。
そのどれにも私はかける言葉を持ち合わせていなくて、考えて、結局黙り込んだ。ふとそんな時にもうしばらくしたら、東京で二人が好きな劇団が公演を打つことを思い出した。テントを立てて、そこでやる野外公演。人気な作品の再演だった。いつだか、山崎ちゃんに話した大切な公演。
(「そんな景色、観ることが出来たら最高だろうな」)
演劇の物語を、その演出を興奮して語った私に、同じように目を輝かせた山崎ちゃんが言った。あのお芝居が、ちょうど来月再演されるじゃないか。観てほしい、と思った。目の前、あの時のような目の強さはなくて、ぎりぎり保っている姿に自分は何も出来そうにない。だけど、きっとあそこでなら。
「ねぇ、じゃあ仕事休んで一緒に東京行こうよ。一緒に、あのテントに行こう」
きっと、山崎ちゃんは断らない。そう思って力を込めて、言う。山崎ちゃんは少し面食らった顔をして「行っちゃうかあ」と頷いた。普段、遠出はそこまでしない山崎ちゃんがそう言うのはもしかしたら少し自棄もあったのかもしれない。でも絶対に、その選択を後悔はさせない、と思っていた。
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この 【山崎ちゃんの話】ほか、5人の人々と主人公柴田が飲んだり食べたりしながら喋って考える短編集「とりあえず一杯のんで」2025年6月1日COMITIA152にて販売予定です!
「どうしようもない」ばかりだけど、こうして過ごす日々があれば大丈夫。

📝宣伝📝
6月1日東京ビッグサイトで開催のCOMITIA152!むせお(@takikomisan )と合同サークルで出ます!
東2け11a「えす、えぬ、てぃ」
既刊のエッセイも持っていきますが、メインは新刊の小説の予定!小説!出ます!ほぼ書き上がりました!
118ページの「とりあえず一杯のんで」という小説です。これが書きたかったんだ、と思える本にはなりそうで、安心してます。
📝宣伝終わり📝
アスターテイスト プロローグ
コーヒーの香りが、店の中に立ち込めている。立ち込めて、と言っても決して不快なわけじゃない。むしろ、ずっとここにいたいと思わされるような、そんな香り。迫り来るような香りではもちろんなくて、なんとなく居心地の良さを作り上げてくれている。
よくよく耳をすませば聞こえるくらいの音量で流されている音楽はピアノのメロディだ。ついつい旋律を追いたくなるような、このまま気付かないくらいの距離感で楽しみたいような音楽。
手元のカップにはもう温度の角が取れたコーヒーが半分くらい残っている。正直に言えば、飲み終わろうと思えば飲み終われる量。なんなら、いつもならこれくらいの量、一口で飲んでしまうだろう。それをちびちびと飲んでいる。
でも舐めるようにで飲むのはなんとなくやっぱり雰囲気が合わなくてほんの少し口をつけては名残惜しくて離す、を繰り返す。
そんなぼくの視線の先に、ひとりの女性が立っている。肩を少し越えたくらいの綺麗な黒髪を一つに緩く括り、麻のエプロンを着ていた。何か帳簿みたいなのを確認しているのか、さっきから目線を手元に落としていて伏し目がちな表情ばかり、見続けている。
人を見ながらコーヒーを飲むっていうのも実際、どうなんだろう。あんまり行儀が良いことじゃないのかもしれない。
そうとは思うのに、いや視線の先にいるから、なんて誰に聴かせるでもない言い訳を心の中で呟いて彼女を見つつコーヒーを飲んだ。
「あ」
とはいえ、コーヒーは有限ではない。そもそも普段より倍もの時間をかけたとはいえ、もうすっかり飲み終わってしまっていて、となるとちょっと気恥ずかしさが追いついて慌てて席を立つ。女性がそんなぼくの様子に気付いて、笑った。
「お会計ですか?」
「あ、はい」
そそくさとカウンターに寄れば、五百円になります、と柔らかな声で告げられた。また慌てながら財布を探る。そんなぼくをじっと見ていたらしい彼女と顔をあげて、目があった。
「あ、え、っと」
「あなた、私のこと好きでしょう」
何を、と思った。この人は、何を言ってるんだろう。
ぽかんと口を開いたぼくにくすくすと笑う、その顔は確かに可愛い。し、不思議と不快感は覚えなかった。あ、とコイントレーを差し出され、ぽかんとしたまま、そこにきらきら光る五百円玉を置いた。かつん、と独特の音が店内に響いた。
「結構ね、分かるんです」
「なにが」
「この人、私のこと好きだろうなあってやつ」
当たり? そう笑う彼女に気が付けば、こくん、と頷いてしまっていた。あ、とまた間抜けに口を開いたけど、もう遅い。
「またどうぞ」
いつでも、待ってますから。
そんなことを彼女は言いながら、お店の入口までぼくを見送ってくれた。ひらひらと手を振られ、つい、ぼくもその手をふり返した。
またって。そう思うのに、きっと自分はまたこの店に来るんだろうなという確信もあった。魔性の人たらしだ、とも思うし、魔性と呼ぶにはあまりにその気配が健やかでそぐわないような気もする。
お店の名前は、徒然珈琲店。そこは一人の男性と女性がふたりで切り盛りする小さな珈琲屋さん。基本的に男性がコーヒーを淹れて、女性がホールを担当しているらしい。無口そうだけど時々キッチン奥で珈琲を淹れている男性も帰り際にぺこりと頭を下げてくれる。そんな様子に楽しそうに女性を笑うのでああこのふたりは仲が良いんだな、と思う。
女性の名前はヨウコさんと言う。
コーヒーにこだわり、居心地の良い音と香りで溢れるその店に、ヨウコさんはいる。そこではみんな美味しいコーヒーを飲んで、嬉しそうに笑っている。そして、その店は訪れたひとは誰もが、彼女のことを好きになってしまうのだ。
そう、みんなが彼女のことを好きになる。
ぼくがそれに気付いた時、ほんの少し寂しくて同時に嬉しかった。ぼくだけじゃない、という気持ちはぼくの好きは特別なんだと大声で言いたい気持ちと引っ張りあって綱引きする。今のところ、その勝敗はついていない。
それからぼくは、その店に通い出した。別にヨウコさんに会いたかったからだけではない。もちろんそれだって大きな理由だけど、学生のぼくには少し高く感じる五百円のコーヒーを飲みたいと思ったから。ぼくにとって、それは時々の自分のためのご褒美でその美味しさはぼくにとっては「嬉しい」そのものだった。
それから、ぼくと同じようにヨウコさんのことを好きになった人たちに会いたかったから、というのもある。
会って話してどうする、とも自分でも思う。おなじだと思いたいわけでも、自分は他の人とは違って特別だと思いたいわけでもない。まだ、ぼくの中でもなんでこうして話が聴きたい理由は分からないけど、それでも、まるでぼくの中にある感情を確認するようについ、声をかけてしまうのだ。
気味悪がられたらどうしようとはたまに思う。だけどなんでかたまたまか。ぼくが話しかけるヨウコさんのことを好きな人たちは決まってなんだかんだとぼくと話をしてくれる。まるで、そうすることで彼女への自分の気持ちをぼくと同じように整理したいのだ、とでも言うように。
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続きはこちらにて頒布予定のアルバムについてくる冊子でお読みいただけます!
通販で頒布中です!
【M3 新譜告知】
— むせお(museo)@BOF:ET (@takikomisan) 2022年10月28日
M3-2022秋にて、
ショートショート付ピアノメインインストアルバム『アフターテイスト』を頒布します!
是非是非遊びに来てください~☕
第一展示場 N-10a (Dorecord)
頒布価格 ¥1000https://t.co/eJvlSvmpYx
グレー・スケール オープニングあるいはボクはここで待つ
ボクは、ぼんやりと時を過ごしている。
見えるのは砂とその奥の街の残骸。もしかしたらその街の名残は蜃気楼かもしれないけれど、ボクに確かめる術はない。
人間は、人間であることをやめたんだと思う。
そんなこともボクが「そう思う」だけで根拠はない。ボク自身も「人がひとだった」と感じる時代を生きたことはないんだから、分かりようがないのだ。
人が文明を手放してからどれくらい経つだろう。
もしかしたら、ボクが知らないだけで文明が残るエリアもあるのかもしれない。それも、ボクも知ることはない。知ることがない以上、存在しないのと一緒だ。
人が人と一緒にいることをやめた。繰り返された戦争でそもそも人口が減り続けた世界はある一つの結論を出した。人は、人と生きるからいけないのだ。
もちろん、人がたった一人で生きていくのは難しい。だけど、極力、人と関わらないように。最小限の小さなコミュニティで生きていくことを選んだ。奪い合ったり傷つけあったりしないように。それぞれが小さなコミュニティに分かれて、生活するようになった。
砂だけがずっとあるもので、そこで遠く太陽がのぼり月とかわりばんこで光を降り注ぐのをただ、見ている。
ボクはそこで、ぼんやりとした時間の中で過ごしてる。時々やってくる誰かが、その中で起こる「ちがうこと」だ。その誰か、もいつくるかはボクにはわかるはずもないんだけど。
ただ、何故かボクのもとにはお喋りな誰かが来ることが多い。それはたまたまそういうひとばかりが来るのか。それとも、ここに来るとみんなお喋りになってしまうのか。どちらかは分からないけれど、ボクはその話を聴くのが楽しみなんだ。
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そんな"ラジオくん"がお話を聴く話をいくつか書き、それに合わせた曲をMuseoが作ったアルバムが出ました
よろしければ。
音楽としても最高のアルバムです。